2002年6月3日の夕方、岡山県津山市の精神科医・高橋幸夫さんの家の電話が鳴った。かけてきたのは、その日の昼から姿の見えなかった妻の妙子さん(当時54歳)だった。
「身の危険はないから、心配しないでください」 「車でぐるぐる連れまわされている」 「どこまで行っているかよく分からないが、多分岡山ぐらい」
誰に連れ回されているのかと幸夫さんが尋ねると、妙子さんはこう言った。
「警察に言わないでください」
電話は23秒で切れた。それが夫婦の最後の会話になった。
同じ日のうちに、幸夫さん名義の口座からは数百万円が引き出されていた。防犯カメラに映った女性が特定され、別の男性の車からは妙子さんの血痕が見つかった。捜査は核心に迫っているように見えた。だが、関与を疑われた男女2人はいずれも、警察が話を聞く前に自ら命を絶った。
妙子さんは、24年たったいまも見つかっていない。
事件概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事件名 | 津山市主婦行方不明事件 |
| 発生日時 | 2002年(平成14年)6月3日(月)昼ごろ |
| 発生場所 | 岡山県津山市弥生町の自宅 |
| 行方不明者 | 高橋妙子さん(当時54歳) |
| 身体的特徴 | 身長155センチ、細身 |
| 当時の服装 | ピンクのブラウス、白またはベージュのツッカケかサンダル |
| 現金の引き出し | 夫名義の口座から約700万円(報道による) |
| 関与を疑われた人物 | 男女2人(いずれも2002年中に死亡) |
| 現在 | 妙子さんの所在は不明、24人態勢で捜査継続 |
| 情報提供先 | 津山警察署(0868-25-0110)/県警本部捜査第一課(086-234-0110) |
テレビは大音量のまま、シャワーは出しっぱなしだった
岡山県警が公表している発生日時は「平成14年6月3日(月曜日)昼ごろ」、場所は津山市弥生町の自宅である。
その日、勤務先の病院から帰宅した幸夫さんが見たのは、妻のいない家だった。岡山放送(OHK)の取材に幸夫さんが語ったところによれば、テレビは大音量でつけっぱなしになり、シャワーも出しっぱなしだった。
家事の途中で、何の準備もなく家を離れた様子がうかがえる。妙子さんはブラウスにツッカケかサンダルという、近所に出るような格好のまま姿を消している。
そしてその夜、冒頭の電話がかかってきた。なお、KSB瀬戸内海放送は妙子さんが「自宅の留守番電話に『連れ回されている』とメッセージを残した」と伝えており、報道によって描写に違いがある。本記事では、夫婦のやりとりを具体的に伝えている岡山放送の報道に沿って記述した。
同じ日、岡山駅前のATMで
妙子さんが消えた6月3日のうちに、幸夫さん名義のキャッシュカードで現金が引き出されていた。
2002年当時の新聞報道をまとめた記録によれば、引き出しは6月3日に岡山駅前のATMで11回にわたって行われ、翌4日には岡山駅地下のキャッシュコーナーでさらに引き出しが試みられたが失敗している。額は報道によって約600万円とも約700万円ともされ、近年の報道では約700万円とされている。
妙子さんが電話で「多分岡山ぐらい」と話していたことと、引き出しの場所は重なる。妙子さんを車に乗せた者たちは、その日のうちに岡山市へ向かい、カードで現金を引き出していたことになる。
防犯カメラの女、タクシー運転手だった男
ATMの防犯カメラには、現金を引き出す女性の姿が残っていた。警察は事件から約1週間後にこの女性の映像を公開し、鳥取県出身の当時33歳の女性と特定した。当時の報道記録によれば、女性は6月22日に窃盗容疑で全国に指名手配されている。
捜査線上にはもう一人、元タクシー運転手の男性が浮かんだ。岡山放送によれば、男性はかつて妙子さんを自宅まで車で送ったことのある人物で、女性とも親しい間柄だった。男性の車からは妙子さんの血痕が見つかり、当時の報道記録によればDNA鑑定で妙子さんのものと一致した。さらにNシステムの解析から、この車が事件翌日の6月4日に岡山県新見市を走行していたことが分かった。
女性はカードを使った人物として、男性は妙子さんとの接点と車に残った血痕によって、事件の中心にいたとみられた。
話を聞く前に、2人とも亡くなった
6月24日の早朝、男性が津山市内の公園で死亡しているのが見つかった。自殺とみられている。男性はその2日前、身の潔白を訴えるために自ら警察署を訪れていた。事件から3週間後のことである。
女性の行方は分からないままだったが、9月23日、岡山市日応寺の山中で遺体となって見つかった。発見時には白骨化しており、こちらも自殺とみられている。
2人が亡くなったことで、警察は2人から直接話を聞く機会を失った。岡山放送は、2人の死を「逮捕が見えてきた矢先」の出来事だったと伝えている。
ただし、2人の死によって妙子さんの死亡が確認されたわけではない。2人のどちらかが妙子さんに危害を加えたことが、裁判で認定されたわけでもない。2人は起訴されないまま亡くなっており、法的には何も確定していない。
捜査と謎、語られてきた説
警察の捜査
岡山県警は事件後、大規模な捜索を続けてきた。男性の車が新見市を走っていたことを踏まえ、2002年の夏から秋にかけて新見周辺の山林やダムを捜索し、ダイバーによる潜水捜索や、山に入る機会の多い猟友会への協力依頼も行われたと記録されている。
岡山放送によれば、事件から22年となった2024年までに投入された捜査員は延べ約5万8700人、捜索した山林やダムは県内外で延べ約100カ所に上る。KSB瀬戸内海放送によれば、2026年6月時点でも24人態勢で捜査が続けられ、2025年6月以降の1年間に8件の情報が寄せられている。
関与を疑われた2人が亡くなったあとも捜査が続いているのは、事件の目的が犯人の処罰だけではないからだ。妙子さんを見つけること。それが24年間、この捜査の中心にある。
残された謎
事件には、いまも答えの出ていない問いがいくつもある。
最大のものは、妙子さんがどこにいるのかという一点である。男性の車が新見市を走っていたことは分かっているが、そこで何があったのか、妙子さんがその車に乗っていたのかどうかは明らかになっていない。
次に、引き出された約700万円の行方がある。2人がそれを何に使ったのか、あるいは別の誰かの手に渡ったのかについて、警察は公表していない。
そして、なぜ妙子さんだったのかという問いがある。男性がかつて妙子さんを車で送ったことがあるという接点は報じられているが、それだけで医師の家に狙いを定めた経緯のすべてが説明できるわけではない。
ネット上で語られてきた説
この事件はネット上でも長く議論されてきた。代表的な説を、確認できる事実と照らし合わせて整理しておく。
男女2人による金銭目的の犯行説 最も多く語られているのが、2人が金銭目的で妙子さんを連れ出し、カードと暗証番号を手に入れて現金を引き出したとする見方である。女性がATMの防犯カメラに映っていたこと、男性の車から妙子さんの血痕が見つかったこと、その車が翌日に新見市を走っていたことなど、報道された事実とは最もよく整合する。ただし2人が亡くなっているため、この見方が裏づけられる機会は失われた。
背後に別の人物がいたとする説 2人が多額の借金を抱えていたとする書き込みがあり、借金の取り立てを受けていた2人が第三者に犯行を強いられたのではないか、2人の死も口封じだったのではないか、とする説がある。ただし、2人の借金の額や相手について公的に確認できる情報はなく、2人の死について第三者の関与を示す公表もない。引き出された金の行方が分かっていないことが、この説の支えになっている。
男性は無関係だったとする説 男性が死の2日前に自ら警察署を訪れて潔白を訴えていたことから、男性は事件に関わっていなかったのではないか、とする見方もある。一方で、男性の車から妙子さんの血痕が見つかったと報じられている点とは両立しにくい。
早い段階で命を奪われたとする説 妙子さんが犯人の顔を見ていることから、電話のあと間もなく殺害されたのではないか、とする推測も語られている。だが遺体は見つかっておらず、妙子さんの死亡は確認されていない。これは推測の域を出ない。
いずれの説も、捜査で確認された事実ではない。本記事では、ネット上で実名が挙げられている人物についても、起訴されないまま亡くなった人であることから名前を記載していない。
事件がもたらした影響と、残された教訓
法的には「亡くなった人」になった
幸夫さんは事件から6年後、家庭裁判所に妙子さんの失踪宣告を申し立てた。失踪宣告は、生死不明の状態が一定期間続いた人を法律上死亡したものとみなす制度である。これにより妙子さんは法律上、亡くなった人として扱われることになった。
だがそれは、妙子さんの死亡が確認されたことを意味しない。岡山県警のページには、いまも「行方不明者」として妙子さんの特徴が掲げられている。法律上の死と、見つからないという現実のあいだで、幸夫さんは24年を過ごしてきた。
1日に数百万円が引き出せた時代
この事件では、妙子さんが消えたその日のうちに、キャッシュカードで数百万円が引き出されている。当時はそれが可能だった。
日本銀行金融研究所の論文によれば、偽造キャッシュカードの被害が社会問題になる前は、キャッシュカードで1日に引き出せる額を数百万円に設定するのが一般的だった。2004年から2005年にかけて偽造カードの被害が急増したことを受け、2005年8月には偽造・盗難カードの被害から預金者を守る預金者保護法が公布され、2006年2月に施行された。銀行業界は1日あたりの引き出し限度額を引き下げ、現在では50万円程度に設定するのが一般的になっている。
この事件がそうした改正のきっかけになったわけではない。ただ、いまの限度額であれば、1日で同じ額を引き出すことはできない。カードと暗証番号を奪えば一日で大金が手に入るという構図は、事件から数年のうちに大きく変わった。
「犯罪に巻き込まれたおそれがある行方不明者」という区分
妙子さんは「警察に言わないで」と言った。家族にとって、この一言は重い。通報すれば本人に危険が及ぶのではないか。そう考えて迷うのは自然なことである。
事件から7年後の2009年12月、国家公安委員会は「行方不明者発見活動に関する規則」を定め、2010年4月から施行した。この規則は、「殺人、誘拐等の犯罪により、その生命又は身体に危険が生じているおそれがある者」などを「特異行方不明者」と位置づけ、警察が早期の発見に向けて活動することを定めている。
本人が「言わないで」と言っていても、連れ回されている、脅されている様子がある場合、それは警察が最も優先して動くべき行方不明の類型にあたる。家族が迷ったときこそ通報を、というのがこの事件から読み取れる教訓の一つだろう。幸夫さんが実際にどのように警察に届け出たのかは報じられていないが、警察はその後、防犯カメラとNシステムで2人の人物と車の動きまで突き止めている。
殺人であれば、時効はない
もう一つ、法制度の変化がこの事件の今後に関わっている。
2010年4月、殺人罪の公訴時効が廃止された。改正時点で時効が完成していなかった事件にも適用されるため、2002年に起きた事件であっても、妙子さんが殺害されていて、その実行に生存している誰かが関わっていたとすれば、その人物は時効を理由に訴追を免れることはできない。
関与を疑われた2人はすでに亡くなっており、2人を罪に問うことはできない。それでも、第三者の関与を語る声が消えない以上、時効がないという事実は意味を持ち続けている。
特定と発見は違う
この事件は、捜査が犯人に迫ることと、被害者を見つけることが別の問題であることを示している。
防犯カメラは現金を引き出した女性を映した。Nシステムは車の動きを記録した。車内の血痕はDNA鑑定で妙子さんと結びついた。2002年当時の技術で、捜査は関与した人物をほぼ突き止めていた。だが人物を特定しても、その人物が話さないまま亡くなれば、妙子さんの居場所にはたどり着けない。
83歳になった夫
2026年6月3日、事件から24年の日に、警察は津山市役所の前でチラシとティッシュを配り、情報提供を呼びかけた。
幸夫さんは83歳になった。事件当日の朝に妙子さんが畳んだ洗濯物は、長く家に残されていたという。2024年、幸夫さんは岡山放送に「せめて遺骨だけでも戻ってくることを僕は望んでいる」と語った。2025年には「あともうそう長く生きない、ここが終のすみか。それまでの間に早く遺骨を僕の手で元に戻してほしい」と話している。
公表されていないこと
妙子さんを誰が、どのように自宅から連れ出したのかは明らかになっていない。電話をかけたとき妙子さんがどこにいたのか、その後どこへ向かったのかも分からない。
約700万円の使い道、男性の車が新見市で何をしていたのか、2人以外に関与した人物がいたのかどうかも公表されていない。妙子さんの生死についても、確認されていない。
情報提供先
岡山県 津山警察署 電話:0868-25-0110
岡山県警察本部 捜査第一課 電話:086-234-0110
古い出来事であっても、当時見聞きした車や人物、場所に関する情報が捜査につながる可能性があるとして、警察は情報提供を呼びかけている。
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参考資料
- 岡山県警察「津山市主婦行方不明事件」: https://www.pref.okayama.jp/page/detail-73399.html 発生日時「平成14年6月3日(月曜日)昼ごろ」、発生場所「津山市弥生町地内の自宅」、高橋妙子さん(当時54歳)、身長155センチ・細身、ピンクのブラウス、白またはベージュのツッカケまたはサンダル、情報提供先(津山警察署0868-25-0110、警察本部捜査第一課086-234-0110)を確認。更新日2023年1月12日。
- OHK岡山放送「突然消えた主婦と多額の現金 事件から20年 残された時間と向き合う夫…夫婦最後の時」(2022年6月1日): https://www.ohk.co.jp/data/26-20220601-00000018/pages/ 電話の内容(「身の危険はないから、心配しないでください」「車でぐるぐる連れまわされている」「多分岡山ぐらい」「警察に言わないでください」)、700万円の引き出し、元タクシー運転手の男と33歳の女、2人の死亡、事件から6年後の失踪宣告申し立てを確認。
- OHK岡山放送「約5万8700人の捜査員投入未解決事件…消えた主婦と多額の現金 津山医師夫人不明22年」(2024年6月11日): https://www.ohk.co.jp/data/33819/pages/ 延べ約5万8700人の捜査員、延べ約100カ所の捜索、男の車からの血痕、車の新見市への往復、女性の公開が約1週間後だったこと、男性がかつて妙子さんを自宅まで乗せたことがあること、男性が死亡の2日前に警察署を訪れていたこと、夫のコメントを確認。
- OHK岡山放送「突然消えた主婦と多額の現金…妻の帰り待つ夫の思い 津山市の医師夫人不明事件から23年」(2025年6月15日): https://www.ohk.co.jp/data/26-20250615-00000005/pages/ 夫が精神科医であること、帰宅時にテレビが大音量でつけっぱなし・シャワーが出しっぱなしだったこと、電話が23秒だったこと、男性の死亡が事件から3週間後だったこと、夫のコメントを確認。
- KSB瀬戸内海放送「津山市の主婦行方不明事件から24年 警察が情報提供を呼び掛け」(2026年6月3日): https://news.ksb.co.jp/article/16615249 24人態勢での捜査継続、2025年6月以降の情報提供8件、津山市役所前での情報提供活動を確認。
- 2002年当時の新聞報道をまとめた記録: https://zikenroku.blog.jp/archives/11615227.html 6月3日の岡山駅前ATMでの11回の引き出しと翌4日の引き出し未遂、6月8日の公開捜査、6月22日の全国指名手配、車内の血液のDNA一致、Nシステムによる6月4日の新見市走行、男性の死亡(6月24日)、女性の遺体発見(9月23日、岡山市日応寺の山中)、新見周辺の山林・ダムの捜索などを確認。※朝日・読売・毎日・産経各紙の報道をまとめた二次的な記録による。
- 日本銀行金融研究所「偽造キャッシュカード問題と銀行業界の対応」関連論文: https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk26-b1-2.pdf 偽造キャッシュカード問題以前は1日あたりの引き出し限度額が数百万円に設定されるのが一般的だったが、現在は50万円程度が一般的になっていることを確認。
- 衆議院「偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払戻し等からの預貯金者の保護等に関する法律」: https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16220050810094.htm 2005年8月10日公布、公布から6か月後の2006年2月10日施行を確認。
- 「行方不明者発見活動に関する規則」(平成21年国家公安委員会規則第13号): https://elaws.jp/view/421M60400000013 2009年12月11日公布、2010年4月1日施行。特異行方不明者として「殺人、誘拐等の犯罪により、その生命又は身体に危険が生じているおそれがある者」が定められていることを確認。
- ネット上の考察: https://wondia.net/takahashi-taeko / https://sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com/entry/2022/06/14/200000 背後の第三者説、借金をめぐる説、男性無関係説、早期殺害説などの参照に使用。いずれも個人の考察であり、事実として扱っていない。
※本記事は岡山県警察の公開資料を最優先とし、事件の経緯、2人の人物に関する情報、捜索の状況は報道による情報として区別している。関与を疑われた男女2人は起訴されないまま亡くなっており、本記事では氏名を記載せず、犯人とも断定していない。2人の死亡の経緯については、詳細を記載していない。法制度に関する記述は事件の背景として紹介したもので、本事件がそれらの制度改正のきっかけになったことを示すものではない。


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