加茂前ゆきちゃん行方不明事件|飲みかけのココアを残して消えた8歳、3年後に届いた怪文書

1990年代

1991年3月15日の午後2時30分ごろ。三重県四日市市富田の家で、小学2年生の加茂前ゆきちゃん(当時8歳)は、パート先から電話をかけてきたお母さんと話しました。これが、家族が聞いたゆきちゃんの最後の声になりました。

およそ1時間後、お姉さんが帰ってきたとき、家にゆきちゃんの姿はありませんでした。テーブルには飲みかけのココアが残り、いつも着ていたジャンパーも置いたまま。いつもはかけて出かける鍵も、この日はかかっていなかったといいます。

それから35年。ゆきちゃんは今も見つかっていません。三重県警は公式サイトに「ゆきちゃんを捜しています」というページを残し、どんな情報でも寄せてほしいと呼びかけ続けています。生きていれば、ゆきちゃんは今44歳です。

事件の概要

項目内容
行方不明1991年3月15日 午後2時30分ごろ、自宅を出たまま
場所三重県四日市市富田(とみだ)地区の自宅
本人加茂前ゆきさん(当時8歳、四日市市立富田小学校2年生)
生年月日1982年5月9日
当時の服装水色地に水玉模様の長袖ブラウス、薄茶色のスカート、黒いビニール靴
家族両親と姉2人(ゆきちゃんは三女)
現在見つかっていない
担当三重県四日市北警察署

あの日の午後、家にいたのは

ゆきちゃんの家は共働きでした。溶接の仕事をしていた父親は夜勤をしていて、その日も夜勤明けで眠っていました。母親はパートに出ていて、2人のお姉さんはまだ学校から戻っていません。

3月半ばは卒業式の季節で、この日のゆきちゃんは早めに下校し、午後2時ごろ家に帰ったとされています。眠っていた父親は、その帰宅に気づかなかったそうです。のちの新聞報道や記録をつなぎ合わせると、その日の流れは次のようになります。

時刻できごと
午後2時ごろゆきちゃんが学校から帰宅する。夜勤明けの父親は眠っていた
午後2時30分ごろ母親がパート先から電話をかけ、ゆきちゃんが出る。家にいたことを確かめられる最後の時刻
午後3時30分ごろ姉が帰宅する。ゆきちゃんの姿はなかった
午後3時30分ごろ自宅の東約70メートルで、白いライトバンの男性と女の子が目撃される(のちに寄せられた情報)
午後4時30分ごろ学校の運動場で、ゆきちゃんが友達と話しているのを上級生が見る
同じころ校庭を横切り、南門から十四川(じゅうしがわ)の堤防道路へ出て東へ歩く女の子を、児童2人が見る
午後9時50分ごろ家族が四日市北署に捜索願を出す

県警が「午後2時30分ころ自宅を出たまま」としているのは、この母親との電話が、家にいたことを確かめられる最後の時刻だからでしょう。電話からお姉さんが帰るまでの約1時間のどこかで、ゆきちゃんは家を出たことになります。

朝日新聞は事件から1か月後、家の中の様子をこう伝えています。いつも着ていたジャンパーが残っていて、ココアは飲みかけのまま。普段は鍵をかけて出かけるのに、この日はかけていなかった、と。自転車も家に置いたままだったと書く記録もあります。

この日は昼間こそ晴れていましたが、寒い一日でした。気象庁の記録では、津の平均気温は4.4度、最高でも8.7度で、北西の風も強く吹いていました。ジャンパーなしで長く外にいられる陽気ではありません。ゆきちゃんは、ほんの少しのつもりで外へ出たのではないでしょうか。

白いライトバンと、校庭の女の子

事件からほぼ1か月がたった4月11日、四日市北署の対策本部は、新たに寄せられた情報を公表しました。朝日新聞によれば、15日の午後3時半ごろ、ゆきちゃんの家から東へ約70メートルのあたりで、白いライトバンから男性が降り、女の子を連れて車に戻った。2人はしばらく車の中で話し、やがて車は走り去った、というものです。女の子は、背格好や服装の一部がゆきちゃんに似ていたといいます。

一方で、それより後の時間の目撃もあります。読売新聞は事件直後、ゆきちゃんが午後4時半ごろ、学校の運動場で友達と話しているのを上級生が見たのを最後に、行方が分からなくなったと報じました。朝日新聞によれば、校庭にいた児童のうち2人が、校庭を横切って南門から十四川の堤防道路へ出て、東へ歩いていく女の子を見ていたそうです。

ライトバンのそばにいた女の子がゆきちゃんだったとすると、ゆきちゃんは1時間後にまた学校にいたことになります。車を降りてから学校へ向かったのか、それとも2つの目撃のどちらかは別の子だったのか。どちらも「ゆきちゃんに似た女の子」の目撃で、本人だと確かめられたわけではないのです。のちにまとめられた記事の中には、近鉄富田駅の近くで見たという情報が多かったと書くものもありますが、どれも決め手にはなりませんでした。

海から山まで続いた捜索

読売新聞によると、家族が捜索願を出したのはその日の午後9時50分ごろで、警察はその夜のうちに捜し始めました。3月21日の中日新聞は、それまでに警察官が延べ484人、富田小のPTAや地元の自治会などが延べ730人、捜索にあたったと伝えています。船やヘリコプターも動員され、配られたチラシは約2万7千枚にのぼりました。

四日市は伊勢湾に面した町です。読売新聞は事件直後に「海に転落か」という見出しを立て、海上保安庁の巡視艇も出たことを報じました。堤防道路を東へ歩いていった女の子の目撃を考えれば、警察が海を捜したのは当然だったのかもしれません。

それでも、ゆきちゃんの手がかりは見つかりませんでした。1か月がたったころ、父親は仕事を休んだままだったといいます。朝日新聞の取材には、こう話しています。「電話が鳴るたびに、どきっとする。なにを食べているのか、寒くはないか……。考えだすと眠れなくなる」。娘がどこかで寒い思いをしていないか。そればかりを案じる父親の言葉が、胸に刺さります。

3年後に届いた「ミユキカアイソウ」の手紙

ゆきちゃんの事件がネットで広く知られるようになったのは、事件から3年ほどたったころ(1994年ごろとされます)に家に届いた、一通の手紙がきっかけです。

手紙は3枚の紙に、平仮名とカタカナ、漢字を混ぜた約700字でつづられていました。書き出しは「ミユキカアイソウ」。ところが、宛名にある父親の名前は一字間違っていて、ゆきちゃんの名前も「みゆき」になっていました。本文は意味の取りにくいところが多く、地名や、どこか古めかしい言い回しが並んでいます。

この手紙は、事件を取り上げたジャーナリストの書籍などで紹介され、やがてインターネットで「怪文書」として広まりました。今ではゆきちゃんの事件と聞いて、真っ先にこの手紙を思い浮かべる人も多いはずです。ただ、警察が差出人を突き止めたとか、事件との関係を認めたといった発表はありません。

家族のもとには、ほかにも霊能者を名乗る人物からの手紙が届いたといいます。2003年ごろには、目撃された男を思わせることを口にする不審な電話もあったと伝えられています。けれど、どれもゆきちゃんの居場所にはつながっていません。

捜査と謎・数々の説

警察の動向

四日市北署には対策本部が置かれ、警察は事件と事故の両方の可能性を視野に調べました。海での捜索も、白いライトバンの情報の公表も、その表れです。

35年たった今も、三重県警は公式サイトで情報を求めています。ページに載っているのは、名前と生年月日、行方不明になった日時、当時の服装、連絡先だけで、目撃情報や車のことは書かれていません。それでもページが消されずに残っていることは、警察がこの件を終わったものとして扱っていない証しなのです。

残された謎

いちばんの謎は、ゆきちゃんがなぜ家を出たのかです。寒い日にジャンパーを置いていき、いつもかける鍵もかけていない。のちの記事の中には、ゆきちゃんがその日、友達からの遊びの誘いを「約束がある」と断っていたと紹介するものもあります。それが本当なら、約束の相手が誰だったのかが大きな意味を持ってきます。

もう一つは、目撃の食い違いです。午後3時半に車のそばにいた女の子と、午後4時半に校庭にいた女の子。両方がゆきちゃんだったのか、どちらかが別の子だったのかで、その日の流れはまったく違って見えてきます。そして、名前を間違えたまま届いた手紙を、誰が、何のために書いたのかも分かっていません。

説1:誰かと会う約束があった

ジャンパーを置いたまま出たのは、すぐ近くへ、少しのつもりで出かけたからではないか、という見方です。「約束がある」という話とも合いますし、午後4時半に校庭で目撃されたことも、学校で誰かと待ち合わせていたと考えれば筋が通ります。ただ、相手が子どもだったのか大人だったのかさえ、分かっていません。

説2:車の男に連れ去られた

白いライトバンの情報を重く見る説です。家からわずか70メートルのところで、女の子が男性と一緒に車に乗った。これがゆきちゃんだったなら、知っている相手だったか、言葉巧みに誘われたのかもしれません。ただ、男性の身元や車につながる発表はなく、1時間後の校庭の目撃とどうつながるのかも説明がついていません。

説3:川や海での事故

事件直後に警察が海まで捜したのは、この可能性があったからです。校庭から十四川の堤防道路を東へ歩いていった女の子がゆきちゃんなら、その先は海の方角です。一方で、川からも海からも手がかりは見つかっておらず、ゆきちゃんの持ち物が見つかったという話もありません。

説4:怪文書が指す「遠くの場所」

ネット上では、怪文書の言葉を読み解いて、ゆきちゃんは遠くへ、あるいは国外へ連れて行かれたのではないかとする考察が数多く出回っています。けれど、手紙の差出人は分かっておらず、本人の名前さえ間違えています。事件に便乗したいたずらだと見る人も少なくありません。

未詳録の考察

記録を読み返して、私がいちばん引っかかったのは「午後4時半の校庭」です。読売新聞が伝えたとおり、ゆきちゃんが学校の運動場で友達と話していたのなら、ゆきちゃんは家を出てから1時間以上、自分の足で動いていたことになります。家に入り込んだ誰かにさらわれた、という話ではなさそうなのです。

寒い日にジャンパーを置いたまま、鍵もかけずに出かけた。ここからは、家の近くで誰かと会うつもりだったのではないか、と私は考えます。それが友達だったのか、ゆきちゃんの知っている大人だったのか、途中で声をかけてきた見知らぬ誰かだったのかは分かりません。ただ、校庭を出て堤防道路を東へ歩いていった女の子の先に、答えがあるような気がしてならないのです。

怪文書については、事件と結びつけて考えすぎないほうがいいと考えます。ゆきちゃんの名前を間違えている時点で、ゆきちゃんを本当に知っている人が書いたとは思えないからです。それよりも重く感じるのは、こうした手紙や電話が、何年たっても家族のもとに届き続けたことのほうでした。

ネットでは、その日家にいた家族を疑うような書き込みも見かけます。けれど、そう考える根拠はどこにもありません。娘の帰りを待ち続けてきた家族に向ける言葉としては、あまりにもむごいのではないでしょうか。

事件がもたらした影響・結末

留守番をする子どもの安全

ゆきちゃんの事件は、共働きの家で子どもが一人で過ごす時間に起きました。家には父親がいましたが、夜勤明けで眠っていて、外へ出ていく娘に気づくことはできませんでした。どこの家庭にもありふれた午後だったからこそ、多くの親にとって他人事ではなかったはずです。今では子ども向けの見守り端末や地域の見守り活動が当たり前になりましたが、1991年にはまだ、そうした仕組みはほとんどありませんでした。

卒業証書を渡したかった春

1995年3月は、ゆきちゃんの同級生たちが小学校を卒業する春でした。中日新聞はこのとき、その月で退職する富田小学校の校長が、ゆきちゃんに卒業証書を渡したいと願っていることを伝えています。見出しには「元気な姿を見せて」という言葉が添えられていました。家族だけでなく、学校もまた、ゆきちゃんの帰りを待ち続けていたのです。

家族に届き続けたもの

怪文書に霊能者の手紙、不審な電話。ゆきちゃんの家族は、娘がいなくなった悲しみに加えて、こうした得体の知れないものにもさらされてきました。今ではネットで怪文書の「解読」が盛んに行われていますが、その手紙を実際に受け取った家族がいることは、忘れてはいけないと考えます。

時効の壁と、今も続く呼びかけ

もし誰かが関わった事件だったとしても、時効の壁があります。たとえば殺人罪の時効は、1991年当時は15年でした。2010年4月27日の法改正で殺人の時効はなくなりましたが、これは施行の時点でまだ時効を迎えていない事件にしか当てはまりません。ただし、犯人が国外にいた間は時効が止まるという決まりもあり、すべてが閉ざされたわけではありません。

そして何より、ゆきちゃんは今も「行方不明」のままなのです。三重県警が情報提供を呼びかけ続けているのは、ゆきちゃんがどこかで暮らしている可能性も、何かを知っている人がいる可能性も、まだ消えていないからだと考えます。

情報提供先

三重県四日市北警察署
電話:059-366-0110

最寄りの警察署や交番、駐在所でも受け付けています。1991年3月15日の午後、四日市市富田のあたりで見たこと、聞いたことがあれば、どんなに小さなことでも構いません。

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参考資料

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