須坂市毒入り烏龍茶殺人事件 ― 「急性心臓死」とされた男性と、売り物にならなかった一本の缶

1990年代

1998年8月31日の朝、長野県小布施町で塗装業を営む58歳の男性が、冷蔵庫から出した缶入りの烏龍茶を飲んだ直後に倒れた。男性は病院に運ばれたが、その日のうちに亡くなった。医師の判断は急性心臓死だった。

翌9月1日の昼、隣の須坂市にある食品販売店で、店長が棚を整理していて、へこんだ缶入り烏龍茶を見つけた。形が崩れていて売り物にならない。店長はそれを自分で買い取り、昼食のあとに口をつけた。味がおかしい。すぐに吐き出した。

調べると、その缶からシアン化カリウムが検出された。

このニュースを見た小布施町の男性の妻は、捨てずに取っておいた夫の缶を確かめた。缶の底に、小さな穴が開いていた。

もし店長が変形した缶を捨てていたら。もし妻が夫の缶を処分していたら。男性の死は心臓の病気として片づけられ、殺人事件だったことは誰にも知られなかったかもしれない。

それから28年、缶に毒を入れた人物は分かっていない。

事件概要

項目内容
事件名缶入飲料毒物混入殺人事件
発生日1998年(平成10年)8月31日および9月1日
発生場所長野県須坂市大字高梨の食品販売店ほか
被害男性1人死亡(小布施町の58歳、報道による)、店長が口にして吐き出す
毒物シアン化カリウム(2本の缶入り烏龍茶から検出)
犯人の人相・服装不明
現在未解決
情報提供先須坂警察署(026-246-0110)

長野県警は事件の概要を、8月31日に男性が自宅で缶入り烏龍茶を飲んだ後に死亡し、翌日に同じ店の店長が店舗の缶入り烏龍茶を飲んで味の異変に気づき吐き出した、両方の烏龍茶からシアン化カリウムが検出された、と説明している。県警のページには、亡くなった男性の氏名や年齢、住所は記されていない。

8月31日の朝、冷蔵庫の烏龍茶

内閣府食品安全委員会の調査報告書や当時の報道によれば、亡くなったのは小布施町で塗装業を営んでいた58歳の男性である。8月31日の午前7時30分ごろ、朝食の際に冷蔵庫から取り出した缶入り烏龍茶を飲んだ直後に倒れた。救急搬送されたが、同じ日の午前中に死亡した。

当初の判断は急性心臓死だった。この時点で、男性の死を事件と疑う者はいなかった。

報道によれば、男性は須坂市の問題の食品販売店をふだんから利用しており、家族には、その烏龍茶もそこで買ったという趣旨の話をしていたという。

9月1日の昼、売り物にならない缶

翌日、同じ店で2本目の缶が見つかる。

当時の報道によれば、店長は棚を整理している途中で変形した烏龍茶の缶を見つけた。へこんだ缶は売り場に置いておけない。店長は自分で代金を払ってその缶を引き取り、昼食のあとに一口飲んだ。異様な味とにおいに気づき、すぐに吐き出したため、命に別条はなかった。

缶が変形していたことが、店長がそれを口にするきっかけになった。そして同時に、中身に異変があることを示す手がかりでもあった。

缶の底の小さな穴

見つかった缶について、当時の報道は具体的な状態を伝えている。340ミリリットル入りの缶は手で握ると簡単にへこむほどで、底には小さな穴があり、半透明の接着剤のようなもので塞がれていた。警察は、この穴から何らかの方法で毒物を注入した可能性を視野に捜査した。

同じ店に並んでいた他の缶には異常はなく、同じ商品を買った客からの被害の届け出もなかったと報じられている。

穴を開け、毒を入れ、接着剤で塞ぎ、店の棚に戻す。缶の中身が少し減ったり、注入の際に缶が歪んだりすれば、握ったときにへこみやすくなる。店長が見つけた「変形」は、細工の痕跡そのものだった可能性がある。

妻が捨てずにいた缶

須坂の店で毒入りの缶が見つかったことが報じられると、小布施町の男性の妻は、自宅に残していた夫の缶を確かめた。缶の底には、同じように穴が開いていた。

妻は9月3日の朝に警察へ届け出た。長野県警の科学捜査研究所が缶に残っていた烏龍茶を調べたところ、青酸化合物が検出された。当時の報道では、病院に残されていた男性の血液からも青酸の反応が確認されたとされる。

急性心臓死とされた男性の死は、こうして殺人事件になった。

捜査と謎、語られてきた説

警察の捜査

長野県警は事件を不特定の人を狙った無差別殺人の可能性も含めて捜査したが、犯人につながる手がかりは得られなかった。県警のページの「犯人の人相・服装」の欄には、いまも「不明」とだけ書かれている。

県警が現在求めている情報は、事件について心当たりがあること、発生現場の周辺で不審者を見たり話を聞いたりしたこと、そして不審な駐車車両や気になる車を見たことの三つである。情報提供は匿名でもかまわないとされている。

事件の個別ページは2025年12月3日に更新され、長野県警の「事件捜査にご協力を」の一覧(2026年2月25日更新)にも「H10.8 須坂警察署管内で発生した殺人事件」として掲載が続いている。

残された謎

この事件の最大の謎は、毒の入った缶がどの段階で、どうやって店の棚に置かれたのかという点にある。缶の底の穴と接着剤の痕跡からは、製造の過程ではなく、誰かが一本ずつ細工したことがうかがえる。細工した缶を客を装って棚に戻したのか、それとも別の経路があったのか。県警はその点を公表していない。

もう一つは、毒入りの缶が何本あったのかという問題である。見つかったのは2本だが、それは一本が人を死なせ、もう一本が偶然店長の手に渡ったからにすぎない。誰にも気づかれずに売れ、飲まれずに捨てられた缶がなかったとは言い切れない。

そして、なぜこの店の、この商品だったのかという問いが残る。

語られてきた説

無差別の模倣犯説 最も有力に語られているのが、不特定の誰かを狙った無差別の犯行だったとする見方である。この事件の1か月あまり前、和歌山市の夏祭りでカレーにヒ素が混入され4人が死亡する事件が起きている。その直後から全国で毒物の混入事件が相次いでおり、須坂の事件もその流れの中で起きた模倣的な犯行ではないか、という見方である。店頭の商品に細工をして棚に戻すという手口は、特定の誰かを狙うには不確実すぎるという点も、この説を支えている。

男性を狙った犯行説 亡くなった男性がこの店をふだんから利用していたことから、男性を狙った犯行ではないかとする見方もある。ただしその場合、店の棚にもう一本の毒入りの缶が残っていたことの説明がつきにくい。県警も男性が狙われたとは公表していない。

店や企業への恨み・脅迫説 特定の店舗や飲料メーカーへの恨み、あるいは企業を脅して金を取ることが目的だったとする見方もある。1984年から翌年にかけてのグリコ・森永事件では、実際に青酸入りの菓子が店頭に置かれ、企業が脅迫された。ただし須坂の事件で、店やメーカーに脅迫状や金銭の要求が届いたとする報道は確認できない。

いずれの説も、捜査で裏づけられたものではない。

事件がもたらした影響と、残された教訓

1998年夏、30件以上の連鎖

内閣府食品安全委員会がまとめた調査報告書によれば、和歌山のカレー事件の直後、1998年8月から年末までの5か月間に、全国で30件以上の毒物・劇物事件が連鎖的に起きた。8月10日には新潟市の会社で、ポットの湯にアジ化ナトリウムが混入され、従業員10人がお茶やコーヒーを飲んで中毒になっている。須坂の事件はその連鎖の渦中で起きた。

これを受けて行政は対応を急いだ。同じ報告書によれば、アジ化ナトリウムは1999年1月1日に毒物に指定され、厚生省は「毒劇物盗難等防止マニュアル」を作成して配布し、毒物・劇物の監視指導を強化した。毒物を手に入れにくくすることが、連鎖を断ち切る手段の一つと考えられたのである。

飲料業界でも、事件直後に業界団体が緊急の対策会議を開き、自動販売機を含めた注意喚起を進めたと当時の業界紙は伝えている。

ただし、この時期に起きた他地域の事件と須坂の事件が同じ犯人によるものだとする公式な情報はない。

「病死」として見過ごされる死

この事件でもっとも重い教訓は、男性の死がいったん急性心臓死と判断されていたことにある。

須坂の店で2本目の缶が見つからなければ、そして妻が夫の缶を捨てずにいなければ、男性の死が毒殺だったことは判明しなかった可能性が高い。毒物による死は、外から見ただけでは病死と区別がつかないことがある。

日本では長く、警察が取り扱う死体の解剖率の低さが課題とされてきた。2012年6月に成立し2013年4月に施行された「警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律」(死因・身元調査法)は、警察署長が死因を明らかにする必要があると判断した場合に、体液や尿を採って薬物や毒物の検査を行うことや、遺族への説明を原則として解剖を行うことを定めた。

この法律が須坂の事件をきっかけに生まれたわけではない。だが、不自然な死を見過ごさないための仕組みが整えられてきた背景には、この事件のように、偶然がなければ殺人と分からなかった死の存在がある。

時効がなくなった事件

1998年当時、殺人罪の公訴時効は15年だった。そのままであれば、この事件の時効は2013年に完成していたことになる。

2010年4月、殺人罪の公訴時効が廃止された。改正の時点で時効が完成していなかった事件にも適用されたため、須坂の事件には現在、時効がない。犯人が見つかれば、いまからでも罪を問うことができる。

繰り返される手口

店頭や自動販売機の飲み物に毒を入れる手口は、この事件が初めてではない。1977年には東京・品川駅の近くで、公衆電話ボックスに置かれた青酸入りのコーラを飲んだ2人が死亡した。1985年には、自動販売機の取り出し口に置かれた農薬入りの飲料で多数の死者が出たパラコート連続毒殺事件が起きている。そして、このうち多くは犯人が捕まっていない。

身近な商品に細工をするこの種の犯行は、実行する側の顔が見えにくく、被害者を選ばない。だからこそ、口にする側の注意が最後の防壁になる。缶がへこんでいる、底に見慣れない跡がある、開けたときの音や味やにおいがおかしい。そうした違和感があれば口にしない。店の商品であれば、棚に戻さず店に伝える。須坂の店長が吐き出したことで、この事件は発覚した。

28年目の現在

事件から28年。2026年現在、長野県警は須坂警察署管内の殺人事件として、情報提供を呼びかけ続けている。

男性は、ふだん使っていた近所の店で買った一本の烏龍茶で命を落とした。誰が、何のために缶の底に穴を開けたのかは、いまも分かっていない。

公表されていないこと

長野県警は、亡くなった男性の氏名や年齢、自宅の場所を公表していない。犯人の性別、年齢、人相、服装も不明とされている。

毒物がいつ、どこで、どのように缶に入れられたのか、缶がどのような経路で店の棚に並んだのかも明らかにされていない。烏龍茶のメーカーや銘柄、毒物の量についても、県警の公開資料には記載がない。犯人が男性を狙ったのか、不特定の誰かを狙ったのかも分かっていない。

情報提供先

長野県 須坂警察署(〒382-0073 須坂市須坂1725-1)

電話:026-246-0110(代表)

事件に心当たりのある人、当時の現場周辺で不審な人物や車を見た人からの情報を受け付けている。匿名での情報提供も可能とされている。

関連記事

参考資料

  1. 長野県警察「須坂警察署管内で発生した殺人事件の捜査にご協力を」: https://www.pref.nagano.lg.jp/police/sousa/tehai-980831.html 事件名「缶入飲料毒物混入殺人事件」、発生日(平成10年8月31日および9月1日)、発生場所(須坂市大字高梨の食品販売店)、事件概要、2本の烏龍茶からのシアン化カリウム検出、犯人の人相・服装「不明」、求める情報、須坂警察署(026-246-0110)、匿名での情報提供が可能であることを確認。更新日2025年12月3日。
  2. 長野県警察「事件捜査にご協力を」: https://www.pref.nagano.lg.jp/police/sousa/index.html 「H10.8 須坂警察署管内で発生した殺人事件」が掲載されていることを確認。更新日2026年2月25日。
  3. 内閣府食品安全委員会「国内で発生した事故・事例等を対象とした食品の安全に係る情報の収集と提供に関する調査報告書(『和歌山毒物混入カレー事件』調査分)」: https://www.fsc.go.jp/fsciis/attachedFile/download?fileId=02-002&retrievalId=cho20040300015 1998年8月から年末までの5か月間に全国で30件以上の毒劇物事件が連鎖的に発生したこと、小布施町の塗装業の男性(58歳)が冷蔵庫から取り出した烏龍茶を飲んで死亡したこと、新潟市のアジ化ナトリウム混入事件、アジ化ナトリウムの毒物指定(1999年1月1日)、「毒劇物盗難等防止マニュアル」の作成・配布、監視指導の強化を確認。
  4. bizSPA!「【25年前の今日の出来事】青酸化合物入りのウーロン茶を飲んで長野県の男性が死亡と県警が発表」(2023年9月3日): https://bizspa.jp/post-744098/ 当初は急性心臓死と判断されたこと、須坂の事件の報道を見た妻が缶を確認し底の穴に気づいたこと、9月3日朝の通報、科学捜査研究所の検査で青酸化合物が検出されたことを確認。
  5. 共同通信1998年9月1日・3日配信記事(新聞記録サイト収録) 缶の容量(340ミリリットル)、握るとへこむ状態、底の穴と半透明の接着剤のようなもの、店長(29歳)が変形した缶を買い取り昼食後に飲んだ経緯、死亡時刻などを参照。※本記事作成時点で原文を直接確認できておらず、報道による情報として扱っている。
  6. 当時の報道を記録したブログ: https://ameblo.jp/ichigoichie8008/entry-11863965319.html 8月31日午前7時30分ごろの状況、缶の裏底の小さな穴を接着剤で埋めた跡、病院に残された血液からの青酸反応、無差別殺人事件としての捜査を参照。
  7. 日本食糧新聞「毒物混入事件に関係業界懸命の対策」(1998年9月7日) 事件後の清涼飲料業界による緊急対策についての報道。※本記事作成時点で原文を確認できていない。
  8. 衆議院「警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律」: https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18020120622034.htm 2012年6月22日公布、2013年4月1日施行、薬物・毒物の検査(第5条)と解剖(第6条)の規定を確認。

※本記事は長野県警察の公開資料を最優先とし、亡くなった男性の住所・年齢・職業、店長が缶を口にした経緯、缶の状態、妻による届け出の経緯などは報道や公的調査報告書による情報として区別している。法制度や業界の対応に関する記述は事件の背景として紹介したもので、本事件がそれらの制度のきっかけになったことを示すものではない。同時期の他の毒物混入事件と本事件の犯人が同一であることを示す公式情報はない。

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