辻出紀子さん失踪事件|斜めに止まったマーチと果たされない約束、伊勢の女性記者はどこへ消えたのか

1990年代

1998年11月25日の朝、三重県伊勢市の損害保険会社の駐車場に、紺色の日産マーチが白線をはみ出して斜めに止まっていました。持ち主は、近くの出版社で働く24歳の雑誌記者・辻出紀子(つじで・のりこ)さん。前の晩、午後11時過ぎに仕事を終えて会社を出たきり、家に帰っていませんでした。

合鍵で車に乗り込んだ父親は、すぐに違和感を覚えます。運転席の位置が、娘のいつもの位置と違う。いつもは大きな音で流れていたカーステレオも鳴らない。たばこを吸わない紀子さんの車の灰皿には、吸い殻まで残っていました。この車を最後に運転したのは、本当に紀子さんだったのでしょうか。

捜査の中で、失踪の直前に紀子さんと会っていた男性の存在が浮かびます。けれど男性は、別の事件で逮捕されたものの無罪となり、紀子さんについて口を開くことはありませんでした。あの夜から、まもなく28年。紀子さんは今も見つかっていません。

事件の概要

項目内容
事件名辻出紀子さん失踪事件(伊勢市女性記者行方不明事件)
行方不明になった日時1998年11月24日(火)午後11時過ぎごろ
場所三重県伊勢市内の勤務先を退社後
行方不明者辻出紀子さん(当時24歳、雑誌記者)
当時の住まい三重県一志郡一志町(現在の津市)
車の発見翌25日朝、勤務先近くの損害保険会社の駐車場で紺色の日産マーチを発見
車の状態斜めに駐車され施錠。運転席の位置の違い、切れたカーステレオ、灰皿のたばこ
見つかっていない物濃緑色のショルダーバッグ
公開手配1999年9月、三重県警が事件に巻き込まれた可能性があるとして公開
現在行方不明のまま。三重県警伊勢警察署が情報提供を呼びかけている

アジアの子どもたちを撮り続けた記者

紀子さんは1974年11月3日生まれ。立命館大学の法学部で学び、ジャーナリストを目指していました。学生時代にはタイやミャンマー、バングラデシュの国境地帯や難民キャンプを訪ね、そこで出会った子どもたちにカメラを向けています。のちに、その写真を集めた写真展も開かれました。

卒業後は地元の三重に戻り、伊勢市の出版社「伊勢文化舎」で雑誌記者になります。県内の自然や手作りの家具などを取材し、失踪の直前には、世界遺産となる前の熊野古道を担当することになっていました。遠い国の人々の暮らしにも、足元の三重の暮らしにも、同じまなざしを向けていた人だったのだと思います。

タイから帰った翌日の夜

失踪の前日、11月23日に、紀子さんは旅行先のタイから帰ってきたばかりでした。それでも24日はいつもどおり出社し、夜遅くまで仕事を続けています。三重県警によれば、伊勢市内の勤務先を出たのは午後11時過ぎごろ。そこから先の足取りが、今も分かっていません。

紀子さんは帰りが遅くなる日には、必ず家に電話を入れていたといいます。その夜は連絡がなく、携帯電話にかけても留守番電話に切り替わるだけでした。今のようにスマートフォンの位置情報で居場所を確かめられる時代ではありません。家族はただ、帰りを待つことしかできなかったのです。

斜めに止められた紺色のマーチ

翌朝、伊勢警察署の交通課から家に連絡が入りました。紀子さんの車が、勤務先近くの損害保険会社の駐車場に止まっているという知らせでした。母親の美千代さんは最初、違反駐車だろうと軽く考えていました。ところが、紀子さんは会社にも出社していないことが分かります。

車は白線をはみ出して斜めに止められ、ドアには鍵がかかっていました。車内が荒らされた様子はありません。トランクには、タイで買ったお土産や英会話のテキスト、寝袋がそのまま残っていました。ただ、紀子さんがその日持っていたはずの濃緑色のショルダーバッグだけが、どこにも見当たりませんでした。

父親の泰晴さんが気づいたのは、運転席の位置でした。座席が後ろに下がっていて、誰かほかの人が乗ったような感じがしたといいます。いつもは大音量で流れていたカーステレオも、スイッチが切られていました。そして灰皿には、たばこを吸わない紀子さんの車なのに、たばこの吸い殻が残っていたのです。週刊女性は銘柄の違う吸い殻が数本あったと伝え、特定失踪者問題調査会の資料は1本としていて、数ははっきりしません。

父が運転して警察署へ

このとき、泰晴さんは合鍵で車を開け、自分で運転して伊勢警察署まで運んでいます。まだ娘が事件に巻き込まれたとは誰も考えていなかった時点で、父親としては当然の行動だったはずです。しかし泰晴さんは後年、警察が状況をつかむまでは動かすべきではなかったと悔やんでいます。発見されたままの車の姿は、そこで失われてしまいました。

失踪の直前に会っていた男性

やがて捜査線上に、一人の男性が浮かびます。紀子さんが取材を通じて知り合った、当時30代半ばの自営業の男性です。2人が知り合ったのは失踪の約7か月前で、失踪当日の24日には、何度か電話でやりとりをしていました。

週刊女性の取材に応じた元刑事によると、男性は当初、最近は電話もしていないし会ってもいないと話していました。ところが通話記録で連絡が裏付けられると、紀子さんを電話で呼び出し、車が見つかった駐車場で会ったことを認めます。自分の車の中で話をした、という説明でした。

問題は、別れた場所の説明です。最初は駐車場で別れたと話していたのが、のちに少し車を走らせた先で降ろしたと変わったと報じられています。父親は、食事のあと途中で降ろしたという話も聞いたと語っていて、伝えられる内容自体にも食い違いがあります。1999年当時の名古屋タイムズは、男性が紀子さんの行方については一貫して「分からない」と話していたと伝えています。

別件での逮捕と無罪、果たされない約束

紀子さんがいなくなってから約2か月半後、三重県警はこの男性を逮捕します。容疑は紀子さんの件ではなく、それより前に東京都に住む女性を監禁したというものでした。男性は起訴されましたが、津地裁は無罪を言い渡しています。週刊女性は、捜査が後手に回った末の「事実上の別件逮捕」だったと書いています。

男性は家族に、弁護士の署名が入った書面を渡していました。東京の件で無罪となり、警察と検察が伊勢の件とは無関係だと信じるのであれば、知っていることを何時間かけてでも話す、という内容です。けれど、無罪になったあとも、その言葉が果たされることはありませんでした。2020年3月に週刊女性の記者が男性を訪ねた際も、男性は「話はないんで」と取材を断っています。

母親の美千代さんは「本当にやましいことがないのであれば、正々堂々とお話をすればよい」と訴えました。ただ、紀子さんの失踪に男性が関わったと認められた事実はありません。男性は別件で無罪となった人であり、未詳録ではその立場を踏まえて名前を伏せています。

後手に回った初動捜査

両親は後年の取材で、当時の警察は娘の失踪を事件だと思っていなかったと振り返っています。週刊女性の取材に応じた元刑事の証言も、それを裏付けるものでした。紀子さんの携帯電話の通話記録が差し押さえられたのは、失踪から1か月後のクリスマスイブ。男性側の通話記録は、年が明けてからでした。

男性の車が調べられたのは、発生から約2か月後です。車内は隅々まで掃除されていて、髪の毛1本見つからなかったといいます。林道の掘り起こしは予算の都合ですべての場所を調べきれず、海の中の捜索も行われませんでした。三重県警が事件に巻き込まれた可能性があるとして公開手配に踏み切ったのは、失踪から約10か月後の1999年9月のことです。

母が電話をかけ続けた100人

警察の捜査を待つだけではいられなかった美千代さんは、紀子さんが残した名刺入れを手がかりに、取材先や友人、知人の100人以上に電話をかけました。テレビ番組にも出演し、超能力をうたう海外の捜査官や、ダウジングの専門家にまで捜索を頼んでいます。警察に重機で林を掘り起こしてもらったこともありましたが、見つかったのは亀の甲羅くらいだったといいます。

「何かしないと気がすまなかった」。美千代さんはそう語っています。藁にもすがる思いだったのでしょう。その一つ一つが、娘を見つけたいという母親の必死の願いだったのです。

捜査と謎・数々の説

警察の動向

2019年の時点で、捜査には延べ約3万1900人が投入され、寄せられた情報は88件でしたが、有力な手がかりにはつながっていません。当時のチラシでは、情報提供者への謝礼金は上限300万円とされていました。三重県警は今も、紀子さんが事件に巻き込まれたとみて捜査を続け、伊勢警察署で情報を受け付けています。

残された謎

最大の謎は、あの駐車場にマーチを止めたのが誰だったのかです。運転席の位置もカーステレオも、紀子さん以外の誰かが運転した可能性を感じさせますが、決め手はありません。男性と別れたとされるあと、紀子さんがどこへ向かったのか。消えたショルダーバッグはどこにあるのか。灰皿の吸い殻が誰のもので、どんな鑑定が行われたのかも、公にはされていません。

説1:最後に会っていた人物が事情を知っている

家族が最も強く疑問を抱いているのが、この見方です。失踪の直前に会っていたこと、最初は会っていないと話していたこと、別れた場所の説明が変わったこと、そして「無罪になれば話す」という約束が果たされていないこと。こうした点から、少なくとも何かを知っているのではないかと考えられてきました。ただし、別件では無罪となっており、紀子さんの件で関与を示す証拠が示されたことはありません。

説2:渡鹿野島の取材が原因だった

ネット上で広く語られてきたのが、志摩市の渡鹿野島をめぐる取材がきっかけで事件に巻き込まれたという説です。しかし、当時紀子さんと交際していた新聞記者は、週刊女性の取材にこの説を「ネット上の根拠のないデマ」と否定しました。島に関心はあっても、その闇を暴こうとしていたわけではなかったといいます。母親も、そうした取材の話を娘から聞いたことはないと話しています。

説3:北朝鮮による拉致

紀子さんは、民間団体の特定失踪者問題調査会が公開している失踪者のリストに載っています。2009年9月には、産経新聞が北朝鮮による拉致の可能性を報じました。ところが交際相手の記者によると、その数年後、この話に関わった大学教員から「人違いだった」という連絡があったといいます。リストへの掲載は、政府が拉致被害者と認めたという意味ではありません。

未詳録の考察

この事件の記録を読んでいて、いちばん胸が痛むのは、手がかりが最初から目の前にあったように見えることです。翌朝には車が見つかり、最後に連絡を取り合った相手も携帯電話の記録に残っていました。それなのに、通話記録が確かめられたのは1か月後、相手の車が調べられたのは2か月後でした。時間がたつほど、確かめられることは減っていきます。大人の行方不明は、事件か、自らの意思かの見極めが難しいものです。それでも、あの時間が取り戻せないものだったことは確かではないでしょうか。

そして、果たされないままの約束です。法律の上では、話すかどうかは本人の自由です。けれど、28年近くも娘を待ち続ける両親にとって、その沈黙はどれほど重いものでしょう。何も知らないのであれば、そう言葉にするだけでも、家族の時間は少し動き出すのかもしれないと考えます。

紀子さんが国境の難民キャンプで撮った子どもたちの写真は、誰かの暮らしに寄り添おうとした若い記者のまなざしそのものです。そのまなざしの持ち主が、今どこにいるのか。その答えを知っている人が、どこかにいるはずなのです。

事件がもたらした影響・結末

「事件か、家出か」という初動の壁

成人の行方不明は、最初の段階で事件性があるかどうかを見極めにくく、本格的な捜査が遅れがちだといわれます。この事件では、通話記録の確保や車の保全が後手に回り、元刑事自身がそれを悔やむ証言を残しました。発見された車をその場で保全すること、最後に連絡を取った相手を早く確かめること。この事件が残した教訓は、今の行方不明者の捜索にもそのまま通じるものです。

街頭に立ち続ける両親

両親は節目の日に、街頭で情報提供を呼びかけてきました。2019年11月には伊勢市のショッピングモールで4500枚のチラシを配っています。失踪から27年となった2025年11月24日にも、伊勢市内の商業施設で、警察官らとともに情報提供を呼びかけました。会場には紀子さんの等身大のボードや、愛用していた靴などが並べられました。

78歳になった父の泰晴さんは「どんな形でもいいですから見つけてほしいです」と話しました。76歳の母の美千代さんは、その1か月ほど前に、名古屋市西区で1999年に起きた主婦殺害事件で26年ぶりに容疑者が逮捕されたことに触れ、「名古屋の高羽さんの件もありますし、絶対に(捜査を)頑張っていただきたい」と訴えています。長い年月がたっても、事件は動くことがある。両親はその希望を胸に、今も娘の帰りを待ち続けているのです。

情報提供先

どんなに小さなことでも、心当たりのある方は三重県伊勢警察署(電話:0596-20-0110)か、最寄りの警察署、交番、駐在所へ連絡してください。三重県警の「紀子さんを捜しています」のページにも、詳しい情報が載っています。

項目行方不明になった当時の情報(三重県警)
氏名辻出紀子(つじで・のりこ)さん
生年月日1974年11月3日(当時24歳)
身長・体重161cm・46kg
髪黒色のセミロング
特徴左手薬指のつけ根に1cmほどのやけどの痕
服装ベージュ色のとっくり首セーター、黒色の綿のスリムズボン、オレンジ色のスニーカー(ニューバランス、24cm)
所持品濃緑色のビニール製ショルダーバッグ(縦40cm×横50cm)

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参考資料

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