山本美保さん失踪事件|海岸に残されたバッグ、20年後のDNA鑑定――警察と家族の見解はなぜ分かれたのか

1980年代

1984年6月4日の午前、山梨県甲府市に住む20歳の山本美保さんは、「図書館に行く」と言ってバイクで家を出た。美保さんはそのまま戻らなかった。2日後に甲府駅前でバイクが見つかり、4日後の6月8日には、約200キロ離れた新潟県柏崎市の荒浜海岸で美保さんのセカンドバッグが見つかった。

それから20年がたった2004年3月、山梨県警は、失踪から17日後に山形県遊佐町の海岸に漂着していた身元不明の女性の遺体について、DNA型鑑定などから美保さん本人と判断したと発表した。しかし家族は、遺体の状態や身体の特徴が美保さんと違うとして、今もその結論に納得していない。

そして警察庁は、遺体を本人と判断した後も、美保さんを「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案」の一覧に載せ続けている。

事件概要

項目内容
失踪1984年6月4日午前、甲府市の自宅をバイクで出る
本人山本美保さん(当時20歳)
6月6日甲府駅前でバイクが見つかる
6月8日新潟県柏崎市の荒浜海岸でセカンドバッグが見つかる
6月21日山形県遊佐町の海岸に身元不明の女性の遺体が漂着
2004年3月山梨県警がDNA型鑑定などから遺体を本人と判断
家族の立場遺体は別人ではないかと疑問を示している
警察の扱い「拉致の可能性を排除できない事案」として山梨県警・新潟県警が掲載

「図書館に行く」と家を出た日

美保さんは1964年3月3日生まれで、大学受験を目指していた。1984年6月4日の午前10時ごろ、家族に図書館へ行くと告げ、バイクで出かけた。そのバイクは2日後、甲府駅前に置かれているのが見つかった。

4日後の6月8日、新潟県柏崎市の荒浜海岸で、美保さんのセカンドバッグを拾ったという連絡が入った。しかし美保さん本人は見つからなかった。美保さんが甲府から柏崎までどう移動したのか、誰かと一緒だったのか、なぜ日本海側の海岸にバッグが残されていたのか。当時、その経緯を示す情報は得られなかった。

続いた無言電話

特定失踪者問題調査会が公開している情報によれば、失踪から約半年後の1984年11月から、山本家には約4年半にわたって無言電話が続いた。ほとんどは数秒で切れたが、失踪から3年4か月後と3年6か月後の2回は10〜15分ほど電話がつながったままで、相手がじっと聞いているようだったという。2回目には、すすり泣くような声が聞こえたとされている。

ただし、これは家族と調査会が公表している情報であり、電話の相手が誰だったのかは分かっていない。

拉致の可能性と、20年後の発表

失踪から18年がたった2002年ごろから、家族は美保さんが北朝鮮に拉致された可能性を訴えるようになった。2003年に発足した特定失踪者問題調査会は、美保さんを拉致の可能性が高い失踪者の一人とし、2004年1月29日には山梨県警に告発状を提出した。

その5週間後の2004年3月5日、山梨県警は記者会見を開き、1984年6月21日に山形県遊佐町の海岸に漂着していた身元不明の女性の遺体について、保存されていた骨髄と、美保さんの双子の妹の血液のDNA型が一致したと発表した。遺体は美保さんが姿を消してから17日後に見つかっていたが、20年間、身元が分からないままだった。

政府は2012年の答弁書で、山梨県警は血液型、性別、推定年齢、推定身長、DNA型鑑定の結果などを踏まえて、この遺体を美保さんと判断したと説明している。2004年当時、山梨県警は一連の捜査結果から、美保さんの失踪は自殺による可能性がある一方、拉致の可能性も完全には排除できないとしていた。

家族が抱いた疑問

家族と調査会は、この遺体が本当に美保さんなのかという疑問を示してきた。

2004年に山梨県警が調査会に示した説明によれば、遺体の死因は溺死で、死後3週間から3か月がたっていると推定されていた。美保さんが失踪してから遺体が見つかるまでは17日である。2012年の国会の質問主意書では、遺体の座高と股下の寸法が高校時代の美保さんの記録と合わないこと、身に付けていた下着のサイズが違うことなども指摘された。歯の治療記録は、すでにカルテの保存期間が過ぎていたため、照合できなかったという。

これに対し政府は、遺体は身体の一部が離れた状態だったため、鑑定書には座高ではなく全長が記されていると答弁し、遺留品についても、メーカーに確認したところ美保さんと同じ体型の人が着用できるものだったと説明している。

調査会は、この鑑定をめぐる問題を「DNAデータ偽装事件」と呼び、2015年には鑑定の開示を求める会も発足した。一方、警察がDNAデータを偽造したと公的に認められた事実はなく、政府・警察は遺体を美保さんと判断した立場を変えていない。未詳録では、家族と調査会の主張と、警察の判断を分けて記録する。

捜査と謎・数々の説

警察の動向

警察庁が公開している「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」の一覧には、2026年現在も美保さんの名前がある。しかも美保さんは、住んでいた山梨県の警察と、バッグが見つかった新潟県の警察の両方の欄に掲載されている。

2012年の質問主意書によれば、同年4月の拉致議連の総会で、警察庁の外事課長は、DNAの鑑定で遺体と一致したからといって事件が解決したとは思っていない、事件の可能性も拉致の可能性も否定できるものではないと述べている。警察は、遺体の身元と、美保さんが甲府を出てから亡くなるまでに何があったのかを、別の問題として扱っていることになる。

残された謎

最大の謎は、6月4日に甲府の家を出てから、6月21日に山形の海岸で遺体が見つかるまでの17日間に、何があったのかという点である。美保さんはなぜ柏崎へ向かったのか、どのように移動したのか、なぜバッグだけが海岸に残されたのか。警察の判断を前提にしても、これらは今も分かっていない。

説1:自ら柏崎へ向かい、海で亡くなった

美保さんが自分の意思で柏崎へ向かい、海で亡くなったという見方である。2004年当時の山梨県警の見解もこれに近く、遺体の死因も溺死とされていた。しかし、なぜ縁のない柏崎だったのかは説明されていない。

説2:北朝鮮に拉致された

柏崎市は、1978年に蓮池薫さんと奥土祐木子さんが北朝鮮に拉致された場所である。家族と調査会は、美保さんも柏崎の海岸から拉致されたのではないかと考えている。調査会は、北朝鮮の国内で美保さんを見たとする証言も紹介している。しかし、拉致を裏付ける公的な確認はない。

説3:拉致や事件に巻き込まれた後に亡くなった

遺体が美保さん本人だとしても、海で亡くなるまでの間に、拉致や別の事件に巻き込まれた可能性を否定できないという見方である。警察庁が拉致の可能性を排除していない理由も、この点にある。

未詳録の考察

この事案の資料を読んでいると、どちらか一方の物語を選びたくなる。DNA型が一致したのだから警察の判断が正しい、あるいは家族が指摘する食い違いがあるのだから遺体は別人だ、というふうに。けれど、公開されている資料だけから、そのどちらかを断定することはできない。

私が思うに、この事案の特殊さは、分からないことが二重になっている点にある。一つは、山形の遺体が本当に美保さんなのかという、家族が抱く疑問。もう一つは、仮に遺体が美保さんだったとしても、甲府を出てから亡くなるまでに何があったのかという疑問である。後者については、警察自身も解明できていないと認めている。

だからこの事案は、「DNA鑑定で解決した失踪事件」とも「北朝鮮による拉致事件」とも書くことができない。1984年6月4日に家を出た20歳の女性に何が起きたのか。42年たった今も、その核心には答えが出ていない。

事件がもたらした影響・結末

身元不明の遺体と、行方不明者の照合

美保さんとされた遺体は、1984年に見つかってから20年間、身元が分からないままだった。骨髄の一部が保存されていたため、のちにDNA型鑑定ができた。行方不明になった人の家族の情報と、各地で見つかった身元不明の遺体を照らし合わせる仕組みの大切さを示す一方、鑑定の過程や結果が家族に十分に開示されないとき、どれほど深い不信が生まれるかも示している。

拉致の可能性を排除できない人々

警察庁によれば、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない行方不明者は全国に869人いて、そのうち家族の同意を得た447人の名前が公開されている。美保さんはその一人として、今も情報が求められている。

情報提供先

山梨県警察本部 警備第一課
電話:055-221-0110(代表)

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参考資料

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