佐賀女性7人連続殺人事件(北方事件)|水曜日に消えた7人の女性、無罪判決の先に残った「真犯人は誰か」

夕暮れの田舎道とパトカー、規制テープ(佐賀女性7人連続殺人事件のイメージ) 1980年代

1975年8月27日、水曜日。佐賀県杵島郡北方町(現在の武雄市)で、一人で留守番をしていた12歳の女子中学生が、自宅から姿を消しました。

それが、終わりの見えない14年間の始まりでした。その後も同じ県内の狭い地域で女性が相次いで行方不明になり、1989年までに7人が遺体で見つかります。7人のうち6人は、水曜日の夕方から夜にかけて姿を消していました。死因が分かった5人はいずれも首を絞められており、この一連の事件は「水曜日の絞殺魔」とも呼ばれるようになります。

1989年、最後の3人の遺体が山林で一度に見つかり、事件は大きく動きます。3人の殺害を認める上申書を書いた男性が、のちに逮捕・起訴されたのです。ところが、死刑が求刑された裁判で言い渡されたのは無罪でした。7件すべてが公訴時効を迎え、7人の命を奪った人物は、今も分かっていません。

事件の概要

項目 内容
通称 佐賀女性7人連続殺人事件(うち1987〜1989年の3件は「北方事件」)
期間 1975年(昭和50年)8月27日〜1989年(平成元年)1月25日
場所 佐賀県杵島郡北方町(現・武雄市)を中心とする半径約20キロ圏(白石町、北茂安町=現・みやき町、武雄市など)
被害者 女性7人(11歳〜50歳)
共通点 7人中6人が水曜日の夕方〜夜に失踪。死因が判明した5人はいずれも絞殺
捜査 北方事件の捜査本部は大町警察署に設置
裁判 北方事件で起訴された男性は、佐賀地裁・福岡高裁とも無罪。2007年4月に無罪確定
現状 7件すべて公訴時効が成立し、未解決

7人の女性――失踪と発見の記録

一連の事件は、14年間にわたって少しずつ積み重なっていきました。まず、7人それぞれの記録を並べます。

件 失踪日 被害者 居住地 遺体の発見 死因
1 1975年8月27日(水) 12歳・中学1年生 北方町 1980年6月27日、白石町の小学校で発見 不明
2 1980年4月12日(土) 20歳 白石町 1980年6月24日、白石町の小学校で発見 絞殺
3 1981年10月7日(水) 27歳・工場従業員 白石町 1981年10月21日、中原町の空き地で発見 絞殺
4 1982年2月17日(水) 11歳・小学5年生 北茂安町 1982年2月18日、町内のミカン畑で発見 絞殺
5 1987年7月8日(水) 48歳・飲食店従業員 武雄市 1989年1月27日、北方町大峠の山林で発見 不明
6 1988年12月7日(水) 50歳・主婦 北方町 1989年1月27日、北方町大峠の山林で発見 絞殺
7 1989年1月25日(水) 37歳・会社員 北方町 1989年1月27日、北方町大峠の山林で発見 絞殺

最初の事件と、5年後の発見

1975年に消えた中学1年生の行方は、長く分からないままでした。手がかりが動いたのは1980年6月です。白石町で、同年4月から行方不明だった20歳の女性が、町内の小学校の便槽の中から遺体で見つかりました。その3日後の6月27日、今度は1975年に北方町で消えた中学1年生が、白石町の小学校の便槽から見つかります。最初の失踪から、ほぼ5年がたっていました。

続く失踪

1981年10月7日には、白石町に住む27歳の工場従業員が姿を消し、2週間後、三養基郡中原町の空き地で見つかりました。死因は絞殺でした。1982年2月17日には、北茂安町の小学5年生(当時11歳)が下校途中にいなくなり、翌日、町内のミカン畑で見つかっています。こちらの死因も絞殺です。

この4件については、犯人の逮捕に至らないまま、公訴時効が成立しました。当時の殺人罪の公訴時効は15年でした。

大峠で見つかった3人

その後、約5年の空白を挟んで、事件は再び動き出します。1987年7月8日、武雄市の飲食店従業員(当時48歳)が失踪。1988年12月7日には、北方町の主婦(当時50歳)が姿を消しました。そして1989年1月25日、北方町の会社員(当時37歳)がいなくなります。

1989年1月27日の午後5時ごろ、北方町大峠の山林近くをドライブしていた夫婦が、崖の下に倒れている女性たちを見つけました。遺体は3人。失踪していた3人の女性でした。失踪した時期は1年半も離れているのに、遺体は同じ場所で一度に見つかったのです。現場の周辺およそ2キロの範囲には、被害者たちのものとみられる遺留品が点々と捨てられていました。この3件は「北方事件」と呼ばれるようになります。

北方事件――逮捕、起訴、そして無罪

上申書と否認

1989年11月、別件で拘置されていた男性(当時26歳)が、大町警察署に置かれた捜査本部の取り調べに対し、3人を殺害したという内容の上申書を書きました。男性は、1989年1月に失踪した会社員の女性の知人でした。しかし男性は、すぐに犯行を否認に転じます。県警はこの時点では逮捕を見送りました。

時効の6時間前の追起訴

男性が改めて事件と向き合うことになったのは、13年後のことです。2002年6月11日、佐賀県警は別の罪で服役中だった男性を、会社員の女性に対する殺人容疑で逮捕しました。7月2日、佐賀地方検察庁は男性を起訴し、県警は同日、1987年に失踪した飲食店従業員の女性の殺人容疑で男性を再逮捕します。この事件の公訴時効が成立するのは、7月8日の午前0時。その約6時間前となる7月7日午後5時40分、地検は男性を追起訴しました。さらに7月9日には、1988年に失踪した主婦の女性の容疑で再逮捕され、7月30日に追起訴。北方事件の3件すべてが、法廷で争われることになったのです。

死刑求刑と無罪判決

2002年10月に始まった公判で、検察側は死刑を求刑しました。しかし2005年5月10日、佐賀地方裁判所は無罪を言い渡します。決め手になるはずだった上申書について、裁判所は、限度を超えた長時間の取り調べの中で、担当者の誘導によって作られたものだと認定し、証拠としての価値を認めませんでした。ほかの物的な証拠も乏しく、「犯罪の証明がない」という結論だったのです。

検察側は控訴し、2007年3月19日、福岡高等裁判所も無罪の判決を維持しました。二審で検察側が新たに提出したミトコンドリアDNA型の鑑定結果も、男性を有罪とする根拠にはならないと判断されています。判決では、長期間にわたって身柄を拘束したうえでの取り調べなど、佐賀県警の捜査のあり方も批判されました。検察側は上告を断念し、2007年4月、男性の無罪が確定します。

言うまでもなく、この男性を犯人として扱うことはできません。裁判所が二度にわたって「証明されていない」と判断した人です。無罪の確定とともに、北方事件の3件も、犯人の分からない事件として残されることになりました。

捜査と謎・数々の説

警察の動向

1件目から4件目までの事件では、犯人の逮捕に至らないまま公訴時効が成立しました。1999年には、県内で未解決の殺人事件が重なっていたことから、佐賀県警が「事件をさばけない県警」と揶揄されていると朝日新聞が伝えています。北方事件では一人の男性が起訴されましたが、判決は捜査の手法そのものへの批判を含むものでした。

残された謎

最大の謎は、7件が本当に一人の犯人によるものなのか、という点です。水曜日、夕方から夜、絞殺、そして半径20キロほどの地域。こうした共通点の重なりが、「一連の事件」として扱われてきた理由です。けれど、死因の分からない2件もあり、事件の期間は14年間にもまたがっています。同一の犯人によるものだということは、どこでも証明されてはいません。

もう一つの謎は、水曜日です。7人中6人が水曜日に消えたというのは、偶然とは考えにくい一致です。犯人の生活のリズムを映しているのか、それとも被害者側の事情が重なっただけなのか。今となっては、確かめる手立ては残されていません。

そして、1982年から1987年までの約5年間、表向きは事件が止んでいたことも気にかかります。犯行が途絶えていたのか、それとも見つかっていない被害がほかにあるのか。空白の5年を説明できる材料は、公にされていません。

説1:一人の犯人による連続犯行

共通点の多さから、一人の人物が14年間にわたって犯行を重ねたという見方が、捜査や報道の中心にありました。北方事件で3人の遺体が同じ場所から見つかったことも、この見方を強めています。ただし、それを裏づける物的な証拠は、結局のところ示されませんでした。

説2:複数の事件が重なった可能性

一方で、14年という長い歳月の中には、無関係な事件が紛れていてもおかしくない、という見方も成り立ちます。死因不明の2件を含め、すべてを一つの事件として結びつける根拠は、状況の一致に頼る部分が大きいのです。「連続殺人事件」という枠組み自体が、捜査や報道の中で作られてきた側面は否めません。

未詳録の考察

この事件の記録を読むと、二つの重さが残ります。一つは、7人の女性の命が奪われ、誰がそれを奪ったのか今も分からないということです。もう一つは、犯人と疑われた男性が、死刑を求刑されながら無罪になったということです。

上申書という「本人の言葉」は、捜査の中で大きな力を発揮しました。けれど裁判所は、その言葉の内容ではなく、生まれた過程そのものを問題にしました。どんな言葉も、どうやって引き出されたのかが問われれば、証拠としての重みは変わってしまう。この事件は、自白や上申書に頼る捜査の危うさを、静かに、しかし重く示しているように思います。

7人のうち、最年少は11歳でした。帰りを待った家族の時間は、時効という言葉では区切れません。犯人を裁く道が閉ざされた今も、何が起きたのかを事実の範囲で記録し続けることに、意味はあるのだと考えます。

事件がもたらした影響・結末

全件の時効と、2010年の法改正

1件目から4件目の事件は、犯人が特定されないまま公訴時効が成立しました。北方事件の3件についても、無罪が確定し、ほかの誰かを裁くための時間は過ぎています。2010年4月、殺人罪などの公訴時効は廃止されましたが、すでに時効を迎えていた事件に新しい決まりは当てはまりません。この7件も、その対象外です。

取り調べをめぐる議論

無罪判決のあと、2007年3月には福岡県弁護士会が、取り調べの可視化の実現を求める声明を出しました。長時間の取り調べと誘導の問題は、この事件をきっかけに改めて議論されることになります。事件そのものは時効を迎え、佐賀県警が本件について情報を呼びかけることも、もはやありません。それでも、この事件が残した問いは、捜査のあり方を考えるうえで、今も色あせていないはずです。

遺族たちのその後

無罪が確定してから1年後の2008年には、被害者の遺族たちが互いにつながる自助組織を作り、心の支えにしてきたと毎日新聞が伝えています。犯人が分からず、裁判も終わり、時効も過ぎたあとで、残された家族にできることは限られています。それでも遺族同士がつながり続けてきたという事実が、この事件が今も終わっていないことを物語っています。

情報提供先

この事件は、7件すべてについて公訴時効が成立しており、現在、佐賀県警は本件を対象とした情報提供の呼びかけを行っていません。以下の連絡先は、事件の記録として掲載するものです。

窓口 電話
佐賀県警察本部 0952-24-1111(代表)

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参考資料

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