袴田事件|死刑確定から44年、再審で無罪になった先に残った「真犯人は誰か」

夕暮れの線路沿いに残る古い家並みと土蔵(袴田事件のイメージ) 1960年代

1966年6月30日、木曜日の未明。静岡県清水市(現在の静岡市清水区)の味噌会社の専務の家が、炎に包まれました。焼け跡から見つかったのは、専務と妻、次女、長男の一家4人。全員に、刃物による傷がありました。

逮捕されたのは、この会社の従業員だった袴田巌(はかまた・いわお)さん、当時30歳。死刑判決を受け、刑は確定しました。ところが、それから58年後の2024年、やり直しの裁判(再審)で無罪が言い渡されます。裁判所は、死刑を支えた証拠が捜査機関に捏造されたものだったと認定したのです。

袴田さんの冤罪は晴れました。けれど、事件そのものは終わっていません。一家4人を殺害し、家に火を放った人物は誰だったのか。その問いに答えはなく、真犯人を罪に問うための時効も、とうに過ぎてしまいました。

なお、この事件に警察の専用ページはありません。司法の手続きが終わった事件であり、ここでは裁判の記録と、それに基づく公的な資料や報道をもとにたどります。2026年は、事件から60年の節目の年です。

事件の概要

項目 内容
事件名 袴田事件(通称。静岡一家4人殺害事件とも呼ばれる)
発生 1966年(昭和41年)6月30日(木)未明
場所 静岡県清水市横砂(現・静岡市清水区横砂東町)、味噌製造販売会社「橋本藤作商店」専務の自宅
被害者 専務(当時41歳)と妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の4人
被害の状況 刃物で刺されて殺害され、住宅が放火されて全焼。現金約20万円などが奪われた
誤って有罪とされた人 袴田巌さん(当時30歳、同社従業員・元プロボクサー)。1980年に死刑が確定し、2024年9月26日の再審判決で無罪となり、同年10月9日に確定
拘束期間 逮捕から釈放まで47年7か月(うち死刑確定者として33年)
管轄 静岡県警察(捜査一課・清水警察署)
公訴時効 真犯人については、特定されないまま成立
現状 袴田さんの無罪は確定。一家4人を殺害した犯人は不明のまま

事件の発生

事件が起きたのは、清水市横砂の住宅でした。味噌の製造と販売を手がける「橋本藤作商店」の専務(当時41歳)が、妻(38歳)と3人の子どもと暮らす家です。同社は遠洋漁船向けの味噌などで伸びた会社で、専務の父が社長を務めていました。現場の家は東海道本線の線路に面し、線路の向かいには工場がありました。

1966年6月30日午前1時すぎ、犯人はこの家に侵入したとされます。一審判決の認定では、売上金を奪う目的で忍び込み、物色中に気づいた専務を刺し、物音で起きてきた妻、長男、次女も次々に刺したうえ、売上現金約20万円と小切手などを奪い、油をまいて火を放った、という経緯でした。住宅は全焼し、4人は亡くなりました。なお、この「犯行の経緯」は、袴田さんを犯人とする一審判決の認定であり、再審でその前提は崩れています。実際に何が起きたのかは、今も分かっていません。

一家5人のうち、長女(当時19歳)だけが難を逃れました。その夜、長女は旅行から帰ったところで、離れの祖父母の家で寝ていたのです。事件のあとも長女は現場の近くで暮らしてきましたが、その心中が表に出ることは、ほとんどありませんでした。

逮捕と裁判

逮捕と取り調べ

捜査の手が伸びたのは、工場の従業員たちでした。7月4日、警察は工場と従業員寮を捜索し、袴田さんの部屋から、ごく微量の血痕が付いたパジャマを押収します。袴田さんは元プロボクサーで、専務と格闘できる人物として捜査線上に浮かんだとされています。8月18日、袴田さんは強盗殺人などの疑いで逮捕されました。

取り調べは過酷なものでした。炎天下で1日平均12時間、最長で17時間を超え、水もトイレも自由にさせなかったと伝えられます。否認を続けていた袴田さんは、勾留の期限が迫った9月6日、犯行を認める供述を始めました。けれど裁判が始まると、袴田さんは一貫して無罪を主張します。

「5点の衣類」と死刑判決

裁判の決め手になったのは、自白ではありませんでした。自白の調書45通のうち44通は、裁判所が証拠として採用しなかったのです。残る柱が、事件から1年以上たった1967年8月、工場の1号味噌タンクの中から見つかった「5点の衣類」でした。

血のようなものが染み込んだステテコやシャツ、ズボンなど5点。検察はこれを犯行のときに着ていた服だと主張し、袴田さんのものだと位置づけました。

1968年9月11日、静岡地方裁判所は袴田さんに死刑を言い渡します。袴田さんの犯行だとする判断は、その後、控訴審、上告審でも覆りませんでした。

判決を書いた裁判官の一人、熊本典道さんは、2007年になって異例の告白をしています。自分は無罪だと確信していたが、合議で少数派となり、心ならずも死刑判決の文を書いた、というのです。熊本さんは判決のあと、裁判官を辞めています。

死刑確定と再審への道

死刑の確定

1980年11月19日、最高裁判所は袴田さんの上告を退けました。同年12月12日、死刑判決が確定します。袴田さんは東京拘置所で、執行の恐怖と向き合う日々に入りました。やがて心身の不調が進み、面会にも応じない時期が長く続いたと伝えられます。

それでも、姉のひで子さんと弁護団、支援者たちは諦めませんでした。2011年には、「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録に認定されるほど、拘束は長引いていきます。

2度の再審請求と、2014年の釈放

死刑確定の翌年、1981年に申し立てた第1次の再審請求は、最高裁まで争われて2008年に退けられました。同年、ひで子さんが第2次の再審請求を申し立てます。流れを変えたのは、検察が保管していた証拠の開示でした。約700点の証拠が開かれる中で、「5点の衣類」のシャツについた血液のDNA型が、袴田さんのものと一致しないという鑑定結果が提出されます。味噌に1年以上漬かっていたはずの衣類の血痕に、赤みが残っていたことも疑問視されました。

2014年3月27日、静岡地裁は再審の開始と、死刑と拘置の執行停止を決定します。袴田さんはその日のうちに釈放されました。逮捕から47年7か月。釈放された袴田さんは、78歳になっていました。

再び閉ざしかけた扉

しかし、道は平たんではありませんでした。2018年、東京高等裁判所はDNA鑑定の信用性を否定し、再審開始の決定を取り消します。2020年に最高裁がその決定を取り消して審理を差し戻し、2023年3月13日、東京高裁はあらためて再審開始を認め、捜査機関による証拠捏造の可能性まで指摘しました。検察は特別抗告を断念し、再審が確定します。再審開始の決定から、ここまで9年近くがたっていました。

2024年の無罪判決

再審公判

再審の公判は2023年10月27日に始まりました。袴田さん本人は心身の状態から出廷を免除され、代わりにひで子さんが無罪を訴えます。審理の中心は、味噌漬けの衣類の血痕に赤みが残るのかという点でした。2024年5月、検察は再審の法廷でも死刑を求刑します。

裁判所が認定した「3つの捏造」

2024年9月26日、静岡地裁(國井恒志裁判長)は、袴田さんに無罪を言い渡しました。判決が認定したのは、捜査機関による3つの証拠の捏造です。第一に、「5点の衣類」は、事件から相当の時間がたったあと、捜査機関が血痕を付けるなどの加工をして味噌タンクに隠したもの。

第二に、ズボンの「共布」とされた端布も、捜査機関が捏造したもの。第三に、確定審で唯一証拠として採用された検察官の調書は、非人道的な取り調べで得られたもので、実質的に捏造されたものだというのです。

これらの証拠を取り除けば、袴田さんを犯人とする根拠は残らない。判決はそう結論づけました。死刑が確定した事件で再審の無罪判決が出たのは、戦後5件目、35年ぶりのことでした。逮捕から数えて21,225日目。國井裁判長は判決のあと、「時間がかかり、とても申し訳ない」と謝罪しています。

無罪の確定

検察は、すぐには動きませんでした。10月8日、畝本直美検事総長は談話を出し、判決を「到底承服できない」としながらも、袴田さんが長く不安定な法的地位に置かれてきたことへ謝罪し、控訴を断念すると表明します。翌10月9日、検察が上訴権を放棄し、無罪が確定しました。なお、検察も静岡県警も、その後の検証では、裁判所が指摘した捏造を否定しています。捏造があったかどうかについて、公の見解は今も割れたままです。

10月21日には、静岡県警の本部長が袴田さんの自宅を訪れ、謝罪しました。2025年3月には、長年の拘束に対する刑事補償の交付も決まっています。

真犯人をめぐる謎

袴田さんの無罪が確定したことで、この事件はもう一つの顔をあらわにします。一家4人を殺害した人物は、結局、誰だったのか。事件の夜、清水の住宅で何が起きたのかは、58年以上たった今も、何ひとつ確かめられていません。

一審の判決が描いた犯行の経緯は、袴田さんを犯人とする前提の上に組み立てられたものでした。その前提が崩れた以上、侵入の経路も、動機も、犯人の人物像も、すべて白紙に戻ります。事件直後に集められたはずの手がかりは、捜査が一人の人物に集中する中で、どれだけ残されたのでしょうか。

そして、時間の問題があります。真犯人については、犯人が特定されないまま公訴時効が成立しています。たとえ今、新しい事実が分かっても、殺人などの罪で裁くことはできません。冤罪の究明に費やされた58年は、そのまま、真犯人を追うために失われた58年でもあったのです。

なお、事件のあとを生き残った長女を根拠なく犯人視するような書き込みが、インターネット上で繰り返されたことがあります。遺族が告訴し、投稿者が死者の名誉を傷つけたとして書類送検される事態にもなりました。分からないことを、分からないままにしておく。未詳録がこの事件を書くうえで、最も大切にしたい点です。

未詳録の考察

この事件には、被害者が二重に存在します。一家4人とその遺族。そして、無実の罪で47年7か月を拘束され、33年を死刑確定者として過ごした袴田さんです。どちらの被害も、取り戻すことはできません。

記録を読んで重く感じるのは、誤りを正すのに、なぜこれほどの時間がかかったのかという点です。判決を書いた裁判官の告白、開示されるまで眠り続けた証拠、再審開始の決定が出てから公判までにかかった9年あまり。間違いを認めるための仕組みはあっても、それが動くまでの壁は、あまりにも厚かったといわざるをえません。

それでも、この事件を「終わった冤罪事件」としてだけ記録するのは違うと考えます。清水の夜に4人の命を奪った人物は、今も分かっていないのです。袴田さんの無罪は、事件の終わりではなく、事件が「未解決」に戻った日でもありました。その両方を書き残すことが、記録の役割だと思います。

事件がもたらした影響・結末

再審制度の見直し

無罪確定のあと、再審制度を改める議論は加速しました。2026年7月17日、再審制度を見直す改正刑事訴訟法が成立します。再審開始の決定に対する検察の不服申し立ては原則として禁じられ、裁判所が検察に証拠の提出を命じられる仕組みも設けられました。今の刑事訴訟法のもとで再審の規定が改められたのは、初めてのことです。ただし、証拠開示の範囲などに課題が残るという指摘もあり、ひで子さんは改正の内容に物足りなさを口にしています。

袴田さんの日々と、60年の節目

袴田さんは釈放後、故郷の浜松市で、ひで子さんと暮らしてきました。長い拘束が残した心身への影響は、今も続いていると伝えられます。2026年、袴田さんは90歳になり、事件から60年がたちます。

一家4人の事件は、加害者が分からないままです。現場の家は建て替えられ、工場も、もうありません。それでも、4人が殺されたという事実と、一人の男性がその罪で死刑を宣告されたという事実は、どちらも消えません。60年という節目に、あらためて記録しておきます。

情報提供先

この事件は、袴田さんの無罪が確定し、真犯人についての公訴時効も成立しているため、現在、警察が本件についての情報提供を呼びかけているわけではありません。ここでは記録として、事件当時の管轄だった警察の、現在の一般連絡先を参考に掲載します。

窓口 電話
静岡県警察本部 054-271-0110
清水警察署 054-366-0110

※上記の連絡先は、本件専用の窓口ではありません。

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参考資料

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